哲学

結局、一人で出来ることは限られている。
なぜかといえば、時間が1日に24時間であるのに対し、人の動ける時間の速度というのは限界がある。そうして突き詰めて考えていくと、自分一人がどうこうしたところで何も意味なんてないんじゃないのかとも思ってしまう。

この年になって、自分の生きる意味を考えるというのはダメでしょうか。何歳になっても自分の生きる意味が「これだー!!」とわかるということはないでしょう。いや、わかった気がするということはあるかと思いますが、あくまでわかった気であって、宇宙とか天とかそういう広い尺度で見たときに生きる意味を見出すというのは神でも見つけない限り出来ないでしょう。 僕だって、今こうしてキーボードをカタカタしている行為に対して宇宙的な意味づけなんて出来ません。この行為は機械にとっては情報を入力する行為であり、人にとっては文章を送信する行為であるわけですが、当然他の動物にとっては何の意味も成さない行為であるわけで、宇宙にとっては地球という惑星の中の豆粒みたいなエリアで何らかの生物が座りながら手をプラスチックの15cmくらいの物体の上におきながら指先を上下に動かしているというだけなのです。それによって宇宙空間に及ぼしている影響といえば、空間上に風を起こしているということぐらいでしょうか。あとは若干の運動によって人の呼吸量が上がることによる空気の流量の増加ぐらいでしょうか。近年の言葉でいえば、バタフライエフェクトという現象もあるといわれていますが、僕がこうして手を動かすことで決してそのような現象が起こっているとは思えません。
一応説明しておくと、バタフライエフェクトという現象は、地球の反対側で蝶が羽ばたくことで起きる風によって、その反対側で津波が起きるという比喩のことをいって、カオス理論の中に含まれているかと記憶しています。人生という時間的尺度の中でいえば、今少し行動したことが将来に大きく左右することもあるでしょうが、なんだかそれとは少し意味合いが違う気がします。


意味。

それを僕が考えたことで見出せるとは思いません。

ただ、考えることは放棄せず、これからも考え続けるでしょう。

きっと何かその先にあるという気がするから。
あくまで「気」だけど。



一人で小さな動きをしたところで世界に大きな影響は及ぼせるようにも思いません。

しかし、だからといってあきらめるというのではそこで話が終わってしまいます。

効果的に、印象的に、何か裏をかくとはまた違ったことで自分の抱いている問題意識に対するアプローチを見出せるのではないかと。そもそも問題意識を鋭く抱いている必要なんだと。そうして信じて活動することこそが今するべきことなんだと。


自分が抱く問題意識:

・メディアの崩壊(情報過多も含む)
・文化の崩壊
・システムの占有、マニュアル化
・コミュニケーションの変容
・関係性の欠如
・自分の喪失


堂々巡り、まさしく螺旋で考えるわけです。
程よく煮詰まってきたので今日はここらへんとします。


そういえば、人って人という枠組みからは進化してないのかもしれませんが、考えてみたら「考える」という行為によって脳に刺激を与え続けているわけで、文化によって人もどんどん進化し続けているわけですよね。縄文時代と現代と、人は身体的・精神的にどれぐらい進化したのでしょうかね。